最初に大前提を書きます。
私は読書する際は図書館で借りたりはせず、あるいは人に借りたりはぜず、はたまた古本ではなく新品を買っています。
そのうえで、言わんとすることをご斟酌ください。
ようやく読み終わりました。
読み始めたのが8/22です。
読了に要した時間約17日。
私は通常だと、小説は3,4日で読み終わります。
(逆にそれ以上かかる作品は、読了を断念するケースもあります。)
この17日要したというのが全てでしょう。
何も共感できるものがない作品でした。
いつも書いていることですが、荒唐無稽でもいいんです。
「読ませる」作家は荒唐無稽でも読ませるんです。
気になったところを列挙します。
①
舞台は京都です。
登場人物はみな関西弁で話します。
主人公は話しません。
→ええと、なぜですか。
敬語だからかと思いきや奥さんとリラックスしているときも標準語です。
なぜですか。東京から移住したんですか?東京の大学で出会ったからですか?
そういうディテール、リアリティも世界観に浸るためにはとても大事です。
②
「慶太郎(主人公の心療内科医)が薬を処方することは珍しい」
→ええと、本当にこういう心療内科医はいるのでしょうか。
もちろん私は心療内科医界隈、業界は全く知りませんが、もし、そういう心療内科医がある程度いるなら、「慶太郎は薬を処方しないことも珍しくない」、あるいは「慶太郎は、安易に薬を処方しないことを旨としている」、その程度ではないでしょうか。
これがリアリティなのでしょうか。
③
ところどころ誰のセリフかわからない会話が出てきます。
慶太郎が友人の恭一に「俺を信頼しているんだろう?」と聞かれた場面です。
「もちろん、そうだ」
慶太郎は、コーヒーを啜ると、
「ただ、うっかり八兵衛のところがあるからな」
と付け加えたが、譬えの古さに吹き出してしまった。
→ええと、吹き出したのは慶太郎ですか?
それならば「譬えの古さに自分で吹き出してしまった。」ではないでしょうか・・・。
この書き方だと唐突に恭一主観になって恭一が唐突に吹き出したよう見えるのですが・・・。
④
被害者の家の実況検分にて。
慶太郎は~八冊の大学ノートを全て確かめてみた~ムーミンに関する関する文言もなかった。
→ええと、被害者の家の中のわずかな時間で三年分の日誌が書いてある八冊の大学ノートをどうやって見たんでしょう、熱心に推理しながら。
しかもその後、じっくり大学ノートを見たらたくさんムーミンに関する記述を発見しましたよね?であれば最初の「ムーミンに関する文言もなかった」という記述はいらないですよね。
地の文がうっかりしてどうするんでしょうか・・・。
以上が、気になったことのごく一部です。
お気づきだと思うのですが、この記事で、私は話の内容に全く触れていません。内容が入ってこないのです。
なんとかかみ砕きながら読んだのですが、凡庸、リアリティ不足以外の感想が出てきません。
1点だけ内容について。
亡くなった被害者が、朝、線路わきから電車に向かって見ず知らずの人に対して手を振ります。
その理由が最後の方で書かれているのですが、全く腑に落ちません。
ということは、そんなことあるはずがない、という感想になります。
ドラえもんの例があります。
誰も「こんなロボットいるはずがない」、あるいは「どこでもドアなんて無理無理」なんていう人はいません。
みんな逆に「ドラえもんが欲しい!」、「どこでもドアが欲しい!」です。
どこでもドアが実現可能かどうかはどうでもいいのです。
欲しいと思わせる、違和感なく作品に没入させるのが作家の力なのです。
藤子先生の力なのです。
新宿鮫の例があります。
1作目では読むのが苦痛だったのですが、2作、3作と読み続けるうちに、作家の成長とともに主人公の鮫島も成長し、物語が豊かになった例です。私はいまだに同シリーズの新作を楽しみにしています。
しかし、この作家先生は20年近いキャリアを持つ還暦を過ぎたベテラン先生とのこと。
年齢による偏見を持ってはいけません。
しかし、大変失礼ですが、おそらく私が今後この作家先生の作品を読むことはないでしょう。