それは何年か前のとある日。
職場での出来事です。
外線の電話が鳴り、私の部下のS君が受話器をとりました。
すると。
S君はしばらくの沈黙の後、「あーはー?」と謎の言葉を発しました。
私はS君を信頼していたので、いつもと違うS君の空気を感じつつも静観していました。
そして。
S君は意を決したようにこう言いました。
"I’m afraid, you have the wrong number."
そうです。
外国の方からの、しかも間違い電話だったのです。
「あーはー?」は"ah hah ?"だったわけです。
優秀な男です。
英語での電話応対など朝飯前だったはずです。
では先ほどの一瞬の沈黙、ためらいは何だったのか。
控えめな男です。
そうです。
S君は、流暢な英語で電話応対することを、私を始め周囲の同僚に対する能力の誇示と取られやしないか心配したのです。もっと言えば、単純な称賛ですら受け取りたがらない男なのです。
私はそれに気づきました。
S君は控えめに、でも着実にその電話応対を成し遂げました。
そこで「S君英語話せるんだね!すごいね!」なんて言っては全てぶち壊しです。S君の控えめな応対が水泡に帰してしまいます。
私ができることは一つだけです。
私は言いました。
「S君。
弟子にしてください。」
私のS君への弟子入り志願後、同僚は誰もその電話応対に触れることはなく午後の時間は静かに過ぎていきました。