私はなぜチャットモンチーを聴かなくなったのか

今はもう解散したチャットモンチーというバンドが大好きでした。

 

当初はそのバンド名に抵抗があり聴かなかったのですが、ラジオで聴いたところ、その太い音、豊かなメロディ、演奏に魅了され気づいたらにファンになっていました。

当然CDやDVDは全て買いそろえ、オークションで古い雑誌なども買い集めインタビューを読み漁り、中高生向けと思われるラジオも毎週録音して繰り返し聴いていました。

 

そして、あまりライブにはいかない私ですが彼女たちのライブには訪れたことがあり、無理に誘ってついてきてくれた友人も「全部いい曲だね」と言ってくれたのがいい思い出です。

 

私がどのくらいチャットモンチーが好きだったか。

おそらくビートルズと同じくらい好きだったと思います。

 

当時の心境を思い出すと、おそらく私はボーカルのえっちゃん、橋本絵莉子さんのその紡ぎ出すメロディ、凛とした歌声、ファットなギターに魅了され、そのキュートなルックスも相まり彼女に半ば恋をしていたのだと思います。

 

 

そんな私ですが、ここまで過去形で語ってきたようにいつしかチャットモンチーを聴かなくなりました。

 

不思議です。

なぜか突然聴かなくなったのです。

その理由が思い出せないのです。

もちろん、音楽の好き嫌いに明確な理由がある方が珍しいと思いますが、最初の熱量に比してその恋の終わりはあまりにぼんやりしているのです。

 

私はなぜチャットモンチーを聴かなくなったのか。

 

少し考えてみます。

 

仮説① 曲が好みでなくなったから。

これは多少あります。

中期以降は確かに「これ!」という好きな曲を挙げることができません。

 

仮説② 橋本絵莉子さんが結婚したから。

これもあるでしょう。いわばガチ恋の私ですから、橋本さんの結婚は言わば失恋。

自然と距離は空いてしまうものです。

 

仮説③ ドラムの高橋久美子さんが脱退したから。

これが答えのような気がします。

 

当初、私は彼女たちが徳島から上京してプロのミュージシャンとして活動していく様子がブログに綴られているのを泣きながら読みました。

 

うらやましかったのです。

 

私はアマチュアですが、音楽の愛好家として、そして地方から出てきた身として、音楽仲間と精いっぱい好きな音楽を奏でられている彼女たちがうらやましくて仕方がなかったのです。

そして、女の子3人組という私とはかけ離れた存在であるがゆえに、私は彼女たちを素直に応援できたのです。

そんな彼女たちの様子が私には空想や夢の世界のように映っていました。

 

その3人から一人がいなくなる。

 

空想や夢は終わりを迎えます。

 

高橋さんが去った後も残された2人、橋本さんとベースの福岡晃子さんはサポートメンバーを交えたり、はたまた2人だけでツーピースバンドとして大いに奮闘していました。結果、2人体制の時間は3人体制のそれより長いものになりました。

本人たちもインタビューでその時代を、充実していたものとして語っています。

 

ですが、私からしたら「2人体制」時代が最高だとしたら、「3人体制」時代は超最高なもので、前者はどうしても物足りなく、そして勝手に寂しさを感じてしまっていたのです。

 

 

私はその寂しさに触れたくなくてチャットモンチーから離れたのだと思います。

 

 

繰り返し勝手な意見ですが、夏休みはいつか終わるし、のんきな学生時代も同じくいつかは終わります。

それでもずっと変わらず好きなことをめいっぱいやり続けたい。

そんな私は、無意識に同志だと思っていたチャットモンチーが夢の世界から出ていってしまいひとりぼっちになる、その思いに耐えられなかったのかもしれません。

 

橋本さんも、福岡さんも現在はそれぞれ結婚し、子育てをしながらソロとして活躍しています。

 

そして橋本さんのソロ曲にこんな歌詞があります。

 

「解散はできないようにもうバンドは組まない」

 

この歌詞だけ見ても、橋本さんにとってもチャットモンチーというバンドはすごく大事なものだったことがうかがえます。

 

そして私はやはり、そんな橋本さんや福岡さんのソロ曲をいまだじっくり聴くことができないのです。

 

 

 

 

 

あるはずのない音

何の変哲もない話ですが、電車の中、となりの人のイヤフォンから音がもれて聞こえてきたら不快です。

 

なぜ不快なのか。

 

そもそも電車は音をたてて走るものだし、ある程度のおしゃべりの声は電車の中では常に聞こえてくるものです。

ですが、おしゃべりはともかく、電車の走行音に文句を言う人はいないでしょう。前提として、電車の走行音は心理的に許容されているのです。

 

つまり、イヤフォンからもれてくる音は、本来もれて聞こえてくるはずがない、という思いに基づくから不快なのです。

 

イヤフォンからもれてくる音、その音量は微々たるものです。

ですが、私の耳まで届いてくるものではない、その固定観念があるが故に不快と感じるのです。

加えて、イヤフォンの主の他者への配慮、自分が他者に迷惑をかけているかもしれないという想像力のなさも不快の源だと言っていいでしょう。

 

私は無神経に音もれさせるイヤフォンの主たる彼らを許すことはありません。

ですが、彼らはいなくなることはありません。「そこにあるはずのない音」は同時に「消え去るはずもない音」なのです。

 

それを心の片隅に置いておくと、少し、ほんの少しはイヤフォンの彼らを許せるようになる、かもしれません。

 

 

 

 

心臓

心臓。

 

英語で言うと、heart 。

 

皆さん何か思いませんか?

 

私は思い切り引っかかりを覚えるのです。

 

どういうことか。

 

そうです。

 

医学用語としても、心臓は英語でheartだということに私は引っかかるのです。

医学用語としての、ある種格式高い英語の用語が、心臓にはないのです。

 

heart、カタカナで表記しましょう、ハート。

ハートが強い、弱い、ハートに刺さる、・・・。

 

ハートは医療の前に日常生活でも使う言葉であり、ポップな印象ですらあります。

かのエルビス・プレスリーに heart break hotel という曲があるとおり、とにかくハートはポップな言葉なのです。

別にハートという言葉に何の恨みもありませんが、どうも俗語、幼児語のように感じてしまうのです。

それなのに医学用語でも、同じくハート。

 

いいのでしょうか。

 

具体的な心臓系の病名でも、心不全→heart failure 、心臓発作→heart attack・・・。

やはり、ハートなのです。

 

ではほかの臓器について調べてみましょう。

 

胃。

英語で言うとstomack 。

胃がん→stomach cancer。

 

「心臓→heart」と同じ現象が「胃→stomack 」においても起きています。

ですが決定的に違うことがあります。

stomackはheartほどのポップさは全く持ち得ていないのです。

であるがゆえに、普段使いの名称がそのまま医学用語でも使われることに違和感はありません。

 

 

 

心臓系の病。

 

命に係わる屈指の重病でしょう。

 

それには相応の、格式高い普段使いではない英語の名称もあってほしい、そんなことを思ってしまうのです。

 

 

 

 

誰がために歌はある

私は以前から、歌手が楽しそうに、気持ちよさそうに歌うことに抵抗を覚えます。

 

好きな音楽を体いっぱいに味わって、力いっぱいに歌う。

それはたいそう楽しいでしょう気持ちいいでしょう。

 

ですが、それが出し物である以上私は、演者である歌手には楽しそうにしてほしくないのです。

 

そうです。

 

楽しむのはこちら、聴き手なのです。

 

この理由で、私はディーバ系フェイク山盛りの歌唱が受け付けられません。

以前も書きましたが、単なる享楽的な、何の効果もないヒーカップの連続も受け付けられません。

感情を込めるのはいいですが、気持ちよさの味わいは内にしまっていただきたい。

一歩間違えればそれは、表現をおざなりにした、怠惰です。

 

自分が楽しくないのに人を楽しませることができるはずがない。

そんな意見も聞こえてきそうですが、そんなことはありません。

 

まずは、力いっぱい目いっぱいの技術でもって歌う。

 

その歌の終わりでもしかしたら、思わずこぼれる自らの笑顔に出会えるかもしれません。

 

 

 

 

桜-cherry blossom-

桜が満開です。

 

この時期になると思い出すことがあります。

 

それが、タイトルの「桜-cherry blossom-」です。

 

 

これはとある私の古い友人がつくった曲のタイトルです。

音楽や文章など、好きな世界では妥協したくないし嘘をつきたくない私ですからはっきり言います。

とんでもなくださいタイトルです。

私の美意識で選択した言葉ではない、ということをまずお伝えしたいと思います。

 

解説するのも野暮ですがあえて言うと、「桜」も「cherry blossom」も王道のど真ん中すぎる言葉で、その2つが並ぶとおなかいっぱいなのです。

メインディッシュのプレートが牛肉と豚肉のみなのです。

彩りとなる野菜もないまま肉のみなのです。

おまけにそのメインディッシュを臆面もなくつなぐ「-(ハイフン)」。

これの使い方が輪をかけてださい。

 

対比する意味でいいタイトルを例として挙げましょう。

 

「sweet revenge」。

 

言わずと知れた、坂本龍一さんのアルバムのタイトルです。同名の曲も収録されています。

この「sweet revenge」。

先述の例で行くと「sweet 」は王道ど真ん中の「肉」と言えるでしょう。

そして「revenge」。こちらは本来の意味は「復讐」であり、王道に対する「邪道」と言える言葉です。その王道と邪道が絡み合って、芳醇な魅力、引きが醸成されているのです。

ただしこれは、「revenge」という言葉が「復讐」という本来の意味しか持たずまだまだ物騒な言葉だった1994年発売当時だからこそ成り立つ言葉で、昨今の「もう一度チャレンジする」という誤用が本来の意味にとってかわりポピュラーになってしまった現在においては成立しません。

「sweet 」も「revenge」も王道になってしまったのですから。

 

話は「桜-cherry blossom-」に戻ります。

このタイトルの曲をつくった友人はその後心を病みました。

一方私は当時からこのタイトルが受け入れられなくて、別の知り合いに意見を求めました。

私なりに真摯にそのタイトルのことを考え悩んだのです。

するとその知り合いも私と同意見で酷評し、こう言いました。

「そのタイトルをつけてしまうような人だから病んでしまうんだよ。」と。

これはなかなかに危険な発言ですが、私は首肯してしまいました。

 

私もその意見を求めた知り合いも、その友人の人間性をとやかく言うつもりはありません。

ですが、気恥ずかしい言い方になりますが同じアマチュアクリエイターの端くれとしては、そのタイトルを認めることはできないし、そのタイトルを平気でつけてしまう感性を受け入れることはできません。

 

 

長くなりました。

 

来年も再来年も、桜の時期に同じようにこのタイトルのことを思い出すでしょう。

その友人がつくったもう1曲のタイトル、「sweet world」とともに。