~西郷の首を発見した軍人と、大久保利通暗殺の実行犯は、かつての親友同士だった。激動の時代を生き抜いたふたりの武士の友情、そして別離。「明治維新」に隠されたドラマを描く、美しくも切ない歴史長編~
ある程度評判が良かったこともあり、久々に歴史ものの本を読んでみました。
率直に言って大したことはありません。
難しいんですよ、この史実に創作の要素を盛り込んで物語を紡ぐというアプローチは。
それに失敗している例が原田マハさんの一連の作品です。
私だけでしょうか、あの誰々と誰々が実は親友だった、という創作にひいてしまうのは。「実は」もなにも創作なんですよね?本作では西郷の首を発見した文次郎と大久保利通暗殺犯の一郎の二人は友人だったというのは事実のようではありますが、どうも説得力がなく本の世界に没入できませんでした。
無論、そこを説得力を持って読ませるか否かは作家の力です。
原田マハさん、そして本作の作家にその十分な力はありません。
気になったところを列挙します。
→前田なんて読むんですか?
なぜあとがきで初めて「よしやす」っていうフリガナが振られるんですか?
こういう時は初出時にフリガナを振るんだよ!章が変わるごとにつけてくれればなおいいよ!
・主人公の一郎が怒りに震える場面で、
「一郎の固めた拳は赤く充血し、今にも破裂せんばかりになっていた」
→比喩が過剰だよ!比喩なのはわかりますが赤く充血しても破裂しそうにまではならないよ!大した場面じゃないのに史実、創作、比喩が入り乱れて引っかかるよ!
・辞官納地という表現。
→徳川慶喜が官職を辞して領地を朝廷に返還したであろうことは想像できますが、最低限の説明は必要だよ!
・卯辰山に救民施設を作る場面で。
→一介の足軽である一郎の意見が尊重されすぎだよ!
意見が採用されるばかりか、プロジェクトの責任ある立場に簡単に任命されるのは安易すぎるよ!
こういうエピソードが史実か創作か気になってストーリーに入り込めないよ!
「西郷を呼び戻すことに決めた」
→西郷が下野しているのは周知の事実だけど、話の流れとして「征韓論争に敗れ下野していた西郷を呼び戻すことに決めた」ぐらい書きなさいよ!エピソードがぶつ切りだよ!
・主人公の一人の文次郎が緊張でがちがちになりながら天皇に謁見する場面で。
「文次郎は顔色一つ変えず歩を進めた」
→「顔色一つ変えず」は何とも思っていないときに使う表現だよ!こういう時には「どうにか顔には出さずに」とか書いておけばいいんだよ!
・往時に勢いのあった政治団体の忠告社が弱体化し、一郎が主宰する小規模団体の「三光寺派」と同程度に縮小してしまって。
「忠告社は三光寺派と肩を並べるほどの規模になっていた」
→「肩を並べる」というのは、衰退して比較対象と同程度になったときではなく、発展して比較対象に追いついたときに使うんだよ!
・一郎が、にっくき大久保利通を斬り大願を成就したときに、大久保が「わしは、生きねばならぬ」と喘いでいる様を目にして。
「大久保さんは単なる権力の亡者ではなく、大久保さんなりの大義があったのだ」
→なぜ瀕死の様を見ただけで急に大久保シンパになるんだよ!殺害しておきながら「大久保さん」って敬称までつけちゃって!
長年の仮想敵をようやく切り捨てた直後にしては、風呂場で転んでけがをした直後に「もうプロ野球は断念するしかない!」とつぶやいた野球選手時代のジャイアント馬場同様冷静すぎるつぶやきだよ!
「大久保さんなりの大義があったのだ」って人にはそれぞれの大義があるのは当たり前だよ!問題はその内容や違いを認めたうえでどうやって進んでいくかなんだよ!そんなことにも気づかないから芽が出ないんだよ!何より一国のトップの政治家を切り捨てた本作のハイライトの割にはどこか牧歌的ですらあるよ!
以上、気になったところの一部です。
これだけ気になったら友情の美しさも何もあったものではないのは言うまでもありません。