以前、野球の伊良部秀樹投手の評伝を取り上げましたが、同じ著者による、俳優勝新太郎の評伝です。
端的に言って感想は、今年読んだ本の中では断トツで面白かった、というものです。
とは言え言いたいことはたくさんあります。
勝新太郎。
当然座頭市は知っています。
そして数々のスキャンダルを起こしてきたことも知っています。
私は、勝新太郎とは一体何がすごいのか、座頭市以外に何がすごいのか、それが知りたいと思い本書を手に取りました。
本書は前半が勝の半生を追い、その役者人生を描きます。
その人生は決して順風満帆とは言い難く、勝本人は常に自身に対して「こんなものではない」という不満を抱え役者人生を歩む様が描写されます。
そして本書後半は突然著者本人が作中に登場します。
著者が、勝が持っていた雑誌連載の編集者として勝と接した日々に切り替わるのです。
何の前触れもなくです。
この作家は、前述の伊良部秀輝の評伝でも顕著だったのですが、対象の分析もそこそこに自分のことを語りだします。
そして問題なのが、同評伝同様、関係者への取材量の不足が疑われます。
取材対象として避けて通れようはずもない中村玉緒に至っては「たまたまパチンコ屋で出くわして、ちゃんと書いてね、と言われた」だけ。
読者にとって興味があるのは作品そのものであり、作家は二の次。よしんば自身を作中に登場させるのであれば、そのエクスキューズは必須です。
既存の刊行物による周知の情報だけではなく、さまざまな関係者に取材した情報を加味して書くのが評伝、ひいてはノンフィクション作家の矜持というものでしょう。
※実際のところ著者は、「取材はいつも二時間を軽く超え~」という描写をしていることから、ある程度の取材は行っていたのでしょう。しかしながら、「○○に取材すると○○はこう思っていた、と語った」という書きぶりではなく、いきなり「○○はこう思った」というような「見てきたような」描写が徹頭徹尾続くために、周知の事実を粛々と述べているように受け取れてしまうのです。そこは作家の表現力、実力が問われるところでしょう。
そして最もいただけないのが、本作の惹句でも用いられた、著者が勝の「弟子」である、という記述です。
これはよくない。
本作を読めばわかりますが、これは著者が勝の「弟子」を自称しているだけです。一時期仕事で近い距離にいたことだけで「弟子」を自称するのは誇大表現です。豪放磊落な勝は笑って弟子認定するかもしれませんが、読者からするととても弟子とは言い難い。著者が勝の弟子であるのであれば、勝の弟子はゴマンといることでしょう。本を売るための嘘は美しくない。
また、勝がいかにこだわりがある人か、ということは本書の中で繰り返し描かれるのですが、そのこだわりの成果としての何がすごいか、この場合勝は俳優ですからどの作品のどの演技がすごいかはたいして描かれていません。おそらくは筆者本人がそれがわかっていないのだろうと思います。
そうです。
本書を読んだ結果、私は、勝新太郎=座頭市、という読む前の予想と違えることのない感想しか持ちませんでした。それが著者がたどり着いた結論だと言われればそれまでですが、「弟子」なら弟子なりの視点でこの魅力的な俳優を描いてほしいと感じました。
以上、酷評してしまいましたが、それでも及第点はとった作品だと思います。しかし、残念ながらそれは多分に本書ということではなく勝新太郎本人の魅力に負うところが大きいことは否めません。