このブログを始めて以来40日ほど、数冊の本の感想を書いてきました。
その中で、この本は初の位置づけの本となります。
どんな位置づけかというと、もともと好きなシリーズで、読む前からある程度おもしろいであろうことがわかっていた本、というものです。
多少のネタバレがあります。
予想どおり、このブログで扱ってきた本の中では、ここまででダントツのナンバーワンと言っていいでしょう。
読了に要した時間が2日であることがそれを示しています。
ですがこの本、つまりはヘルドッグスシリーズの最終章とのことですが、この最終章はなくてよかったかと思います。
それだけに1冊目「ヘルドッグス 地獄の犬たち」は良かったと思います。
この作家、そしてシリーズの特徴として、グロテスクな描写が徹頭徹尾続きますが、本作はそこまでではありません。
(この作家のグロテスクな描写には必然性がありますし、いつも作家の「限界まで描く」という単なる悪趣味ではない執念のようなものを感じさせてくれます。)
警察官がスパイとして組員に身をやつしヤクザに乗り込み、結果自らの意志で取り込まれ挙句の果てに自らが組長となる。
そして警察がその組を壊滅させるために選んだ手段が新たな警察官をスパイとして組に送り込む。
荒唐無稽と言えばそれまでです。
でも、この作家はそうは感じさせず読ませるんです。
それが作家の実力です。
先日以下の記事で、作品の荒唐無稽さがただそのまま出た良くない例として以下の記事を投稿しました。
この記事で私は、件の作家の作品を今後は読むことはないだろうと言いましたが、逆に本作「ヘルドッグス 地獄の犬たち」の作家深町さんの作品は今後も読むだろうと全く逆の感想を抱かせてくれました。
ですが、本作の結末は、本作のみならずシリーズの結末として消化不良です。
出月はあれで救われたかもしれませんが、そこは読者の胸の中で想像させるものにしてほしかった。
出月、あるいは兼高は、今も世界のどこかを放浪している、くらいの想像力の余地を持たせてくれてもよかったのではないでしょうか。
1冊目の世界観に浸りたい人は、本作は読まない、という選択肢もいいかもしれません。前向きな選択として。
また、小説やドラマでよくある、エピローグでの「〇年後・・・」という描写。
あれが私はどうも苦手なのです。
本作では「20年後」というものでした。
主人公の女性刑事、真里亜が老眼鏡をかける描写が出てきます。
どうも安易さを感じます。
地続きの時系列で語って、結んでほしいのです。
このブログでは恒例の、気になる箇所もありました。
主人公の真里亜、そして樺島と町本が、居酒屋で酒を飲むシーンです。
真里亜は町本にカマをかけ「この野郎!」と叫びテーブルをたたきます。
あえての行動ですが、「この野郎!」は真里亜のキャラクターと違いすぎて不自然でした。そこは「町本さん!」で十分意図は伝わったはずです。
その場面では、真里亜が見事な洞察力で町本の正体を見抜きます。ここが本作で私が一番引き込まれたシーンです。
ここまでくれば真里亜はその後もっと活躍してもいいようなものですが、主人公としての見せ場はここまで。
また、真里亜の相棒の樺島は、実は真里亜を監視する上層部からのスパイだったわけですが、彼はいつから上層部とつながっていたのでしょうか。最初からだとしても、いち刑事の真里亜がまだ何も知る前、街のチンピラを追いかけているときからペアを組まされるのは不自然です。
でも気になったのはこのくらいでした。
ちょうどジャニーズのタレントが主演でヘルドッグスが映画化されるとのことで、それに合わせて本作が書かれたことは容易にわかりました。
その映画のキャスティングについても少しだけ。
私はヘルドッグスを読んだ際は、ラスボスの十朱のビジュアルを、頭の中でGACKTさんに設定して読み進めました。クールな天才のイメージはGACKTさんの「ビジュアル」になじんだのです(GACKTさん「そのもの」のイメージではなく「ビジュアル」です)。
実際の映画ではMIYAVIさんとのことで、当たらずとも遠からず。
最後に、本当であれば本作は、作家自身の望むタイミング、動機で描いてほしかった。
そうすればきっともっと深みのある作品になったはず。
あるいは「書かない」という選択肢もあったはず。
そのあたりの消化不良感は、これからも読むであろう作家の次作に期待したいところです。
おまけです。
私は本作の作家、深町秋生さんのデビュー作「果てしなき渇き」を発売当時に読みました。ですが、全く入り込めずヘルドッグスシリーズまで敬遠していました。
作家は成長します。