(前編はこちらです。)
そのブログはD君を懐かしむようなブログでした。
D君を懐かしむブログ。
そうです。
D君は急病で亡くなっていたのです。
全く付き合いもなくなり、あまつさえ私自ら距離を置いたといえども、知り合いが亡くなっていたという事実は私にとっては衝撃的でした。
D君は、自分のことを語ることを極端に嫌う人でした。
そしてD君はご家族を、特にご両親を信じていませんでした。
また、私が付き合いがあったころのD君は音楽も好きで、好きなジャンルのCDを買い集めていたのですが、D君曰く「親は自分(D君)が音楽好きなことは知らない。親に自分の趣味のことなど知られたくない」と言うほどご両親と精神的な距離を置こうとしていました。
この心情は私も同じなのでわからなくもありませんが、D君のそれは度を越していました。
話は「D君を懐かしむブログ」に戻ります。
そのブログを読み進めると、そのブログはD君のご両親が運営していることがわかりました。
当然のことながら、ご両親は急逝したD君のことを悼む内容を書き連ねます。
そして、ここからが重要なことです。
D君のご両親は、D君の小説を自費出版していました。
無論それは、志半ばで亡くなった可愛い我が子の精魂込めて作った作品を、何とか形にして発表してあげたい、という最後の親心によるものです。
私は、外野ではありますが複雑な心境になりました。
D君のご両親の行動は、D君への愛情そのものです。
D君も愛情自体を全否定することはないでしょう。
ですが、私が知っているD君は、自らが書き溜めていた小説を、本人の同意なしで出版されることを望むような人ではありませんでした。
ましてや遺稿集のような形で発表されることを良しとする人ではありませんでした。
遺稿集の発表を、「さらされている」、「恥ずかしい」ととらえるのがD君です。
私はこのブログの一連の記述を見て、死後の世界なんてないんだと確信しました。
死後の世界や、幽霊なんてものがあるとしたら、D君は確実に人知を超えた力でその出版を差し止めようとするはずです。
私が距離を置いたのちに大人になったD君は、ご両親の行動を愛情がなせる業として笑って許す人になっていた・・・、そんな姿は想像できません。
亡くなろうが健在だろうが、D君は「許さない人」です。
D君のご両親からの、D君への無償の愛。
D君がとったご両親への距離。
そして、私という外野から見たD君とご両親の隔絶。
その外野の意見はこうです。
陳腐な言い方になりますが、人はいつか死にます。
そしてそこですべて終わるのです。
亡くなった人は天国で笑っている、そんなことはないのです。
天国とか、地獄とか、そんなものはないのです。