日米のプロ野球で活躍し、その快速球と奔放なキャラクターで知られたピッチャーの評伝です。
まず読む前に想像したのは、「強面でわがまま、強気な発言のイメージの強い伊良部だか、実は繊細な一面やこころ優しい一面もあった」という内容であろうということです。
そして読後の感想はその想像と全く違わぬものだった、というものでした。
私は著者の近作である「真説・長州力」や「真説・佐山聡」も読みましたが、それらは、長州力、佐山聡という二人の稀者の読む前の評価を下げないまま、その魅力をより立体的に伝える力作だったと思います。
しかしながら本書は、伊良部秀輝という、長州、佐山に負けず劣らずの魅力的な傑物、素材を活かしきれていません。
以下、気になった点のほんの一部を列挙します。
①継ぎ接ぎ感というか、エピソードがぶつ切りになっていて、描き方が浅い
マイナーリーグで吉井理人と出会い意気投合する場面の次のページで、二人はなんの前触れもなくメジャーの舞台に立っていたりします。華やかなメジャーの舞台よりも、マイナーの厳しい環境での悪戦苦闘の方が読んでみたいところです。
また、伊良部の代理人だった団野村が岩隈久志の代理人をしていた際のエピソードなどは、本書で描く必然性が全くありません。
②読者が置き去り
本作は伊良部が亡くなって発見されたところで本編が終わり、終章で、著者がアメリカまで伊良部の実父に会いに行き、実父の「孫に会いたい」という、伊良部の人となりには全く関係なくどうでもいい話で終わります。
それで「伊良部を巡る旅は終わったんだ」と黄昏れられても読者は置き去りです。
③最低限必要な説明がない
作中で伊良部の妻「京淑」なる人物がなんの説明もなく急に語られだします。
説明不足もいいところだし、伊良部ほどの男の結婚や、その妻との馴れ初めなどを深掘りしない手はないでしょう。
伊良部がどんな女性がタイプなのか、無論野球には全く関係ありませんが、彼の魅力、実像を浮き彫りにするにはとても興味深いところなのに見事なまでにノータッチ。
そもそも「京淑」は何と読むのでしょうか。
どうも韓国の方らしいのですが、それならそれでキャサリンとかマイケルとかフリガナを振ってください。
④裏付けがあいまいなまま好き勝手に書いている部分がある
作中で著者は伊良部を評価する場面も多々ありましたが、概ね厳しい評価をしています。
それこそ、伊良部が健在だったらシバかれるような厳しい評価です。
どうも、伊良部に近い親族などがいないことをいいことに、十分な裏をとらずに好き勝手に書いたように思えて仕方がないのです。
遺族は、この内容を許可したのでしょうか。
内容に嘘はないと思いますが、どう考えても伊良部が存命だったら出版を許可したとは思えません。
伊良部は「許可する人間」ではないことを本作は全体を通して語っています。
また、作中で語られる吉井理人との関係性などはまさに伊良部の「いい方」の一面を示しますが、現在の吉井にインタビューした形跡はありません。
そうです、本作は、その大半を過去の関連書籍やインタビューをもとにしていて、出版時現在のインタビューが決定的に不足しているのです。
また、伊良部がピッチング理論に関しては卓越し、かつ貪欲だったとは、本書で徹頭徹尾描かれるエピソードですが、私が読んだ限り「その反面練習嫌い」という評価は最終盤まで出てきません。そういった詰めの甘さがこの作品を薄っぺらくしているのです。
さらに、本作の序盤で、筆者は「伊良部がメジャーリーグ行きにこだわったのは生き別れた父に会うため」という方向にさりげなくミスリードします。
そして最後に「父に会うためだったと語っていた、時もある」とマッチポンプ。
そのさりげなくミスリードしようとするやり口が気に入らない。
その仮説が正しいと思うのであれば、きちんと裏をとるべきだし、裏が取れなのであれば、そんな大風呂敷かつ大法螺はやめていただきたい。
さらに、作中で高校の野球部時代の「佐伯貴弘」という後輩が登場します。
そこでフルネームを語るなら、「のちの横浜ベイスターズの」という肩書をつけて説明すべきです。
私なら、肩書をつけないのであればあえて「佐伯」という表記のみでその後輩を描きます。
そして舞台がプロに移った時にこう描きます。
「伊良部は横浜打線を迎え撃った。
バッターは佐伯貴弘。あの日の後輩『佐伯』だ。」という具合です。
ちょっとした叙述トリックの完成です。
いつものことながら批判が止まらなくなりました。
そして、ここまで書いてきて気づきました。
筆者の田崎は、作品を通じて伊良部という稀代の暴れ馬を御せなかったのです。
評伝の主役はあくまでその対象者です。著者はその魅力や所業を伝える媒介でしかない。
「伊良部を巡る旅は終わったんだ」と黄昏て泡盛を飲む描写で作品の幕を閉じられても読者は置いてけぼりでしかないのです。